夏の臨終を見届けに、日比谷公園に行った。
呼吸はしているものの、その勢いは弱まって、崩れ落ちる瞬間は、もう目の前に迫っている。日差しはいつのまにか長くなっていた。蝉の声が今日を限りと降るように響き渡り、夏はその身体を豪快に横たえていた。昼下がり。呼応するかのように、生き物はみな怠惰になっていた。


公園にいるのは営業まわりのサラリーマンと居住地が日比谷公園と住民票に記載しているような公園人な方。それとまわりに一切気づかないふりをしているわかいカップル。そして私。猫はあちらこちらにひっくり返り、人が寄っても微動だにしない。

こんな風に無防備で。
この猫を近くの公園人が「シロー」などと呼びかけて飼い猫のようにしていた。そんなわけで日比谷公園は猫が非常に多い。落葉すれば猫に当たる、といわんばかりである。個人的には公園人の非常食にされてなければよいが、と危惧している。


偶然小用を足すところを目撃。近づいて画像を撮ると、なにみてんだょう、といった顔をして座ってそっぽむいた。いい肥料になるとよいが。

石垣と一体化している猫や

草むらからびっくりという猫もいる。

ベンチの間をのそりのそり歩いているやつもいる。そうじて人は無関心で猫の自由空間となっていた。思い出ベンチとかいうけったいなシロモノに座って、ベンチの数だけの思い出を想像し、背中をひやりとさせながら、空を見上げた。
建設中のビルの突端にある赤いクレーンが、低くのしかかるような雲を背に淡々と業務をこなしている。あがったりさがったり。鼠色の雲はその先からいまにもしずくをたらしそうにしながらも、時折その背後にある高い空をのぞかせたりして、もうこの雲が過ぎ去ったら否応なく秋なのだと実感させられる。夏が静かに呼吸を止めようとしていた。
崩落する瞬間を目の当たりにしなくてもよい、と私はベンチをたった。

少し歩くと、二匹の猫が道路で寄り添い、人がそばに来るのもかまわず舐めあっていた。近くまで寄ってみる。


私が黒猫のそばにいくと、間に割り込むようにして茶色の猫が私の前に座り込んでくる。二匹とも背骨が浮き出るほどやせていて、茶色の猫は目やにがひどく、黒い猫には蠅がたかっていた。黒猫はあちこち怪我をしているようで、ところどころ毛が抜けている。膿でもでているため蠅がたかっているのか、もっと別な要因があるのか、私にはわからなかった。近くに行くと微かに腐臭が漂っていた。黒猫は痒いのか、怪我しているところを茶色の猫の前にもってくる。茶色の猫はそこを丹念に舐めとる。真摯としかいいようのない仕草で懸命に。私は茶色の猫をそっと撫でる。ごろごろとのどを鳴らす姿に身体を刃物で切りつけられるような切実さを感じながらいたわる様に撫でる。
黒猫には死が、腐汁漏れる触手をのばし、尾っぽのほうからばりばりと咀嚼をはじめているようだった。遠くない時期に、すべてを齧りとられるだろう。死はその肢体を覆い、包み込んで誘うように。そして茶色い猫も、黒猫ほどではないが、おそらくは。死は彼らを支配しつつも、そこで輝いているのは圧倒的な生だった。眩いほどの生のきらめきが彼らの頭上にあった。その最期の一滴を搾り取られるまで二匹の猫はその生を十分に滴らせ、この世界にあるだろう。生と死がめまぐるしいほどせめぎあう姿を私は直視させられた。彼らは生きている。だが死につつある。しかしそれは、この私とどう違うのだろう。宿命の神から見れば、私も生きてはいるが、死につつある。それが直近かそうでないのか――無闇にただ「生きている」側にはわからないのだ。既に私の身体も死に蝕まれているかもしれない。私とこの猫たちはそういう意味では等しく同価値であるのだ。
どうすることもできないまま、ただその黒猫にたかる蠅を手で払った。だが黒い猫は攻撃されると思ったのだろう。よろよろと不確かな足取りで私から離れていった。

自分の運命がわかっているように、そして私の無意味に過剰な思い入れを拒否するかのように、排水溝に座りこちらを見上げる。自分の分をわきまえるべきだ。そこから静かに立ち去った。
生と死は都会であっても十全に配置されており、観念の存在ではない。ただ見るか見ないか、その差である。死はいつでも私の身近にあり、ある作曲家の言葉ではないが結局のところ「その瞬間まで偶然のように生き急ぐしかない」のだ。100年後か、明日か、次の刹那か。私はそのときまで、生を全うしたいと思っている。


by chrysanthemum
女の「からだ」に男は興味がな…